父と夢

今日、父が古希を迎えた。70歳である。マーが「70っていくつ?」と聞くので、1から一緒に順に数えた。「な〜なじゅう」までくると、あまりの長さにちょっとびっくりした顔をしたのが笑えた。「ねっ、マーちゃんたちは、まだ「4」なのに、じいじはもうこんなにいっぱい生きたんだよ。」
 昭和11年2月28日、確か2・26事件の2日後だったと思う。中学生の頃?その事実に興奮して「お父さん、すごい時に生まれたんだね」と言うと「ばか、こんな田舎でそんなこと分かるもんか」の一言で片付けられた。そりゃそうだ、だいたい本人は赤ちゃんだったしね。
 私は「お父さんっ子」で父が好きだった。「お父さんはね、7歳の時にお母さんをなくしたんだよ、かわいそうな人なの。だからやさしくしてやってね」それが母の口癖だった。幼いながらに「お父さんを大切にしてあげなきゃ」と思い続けた。だから父を喜ばせたかった。喜ぶ顔を見るのが好きだった。
 思春期になると、女の子は男親を煙たがるというけれどそんなことはなかった。父はあまりにも汚なすぎた。朝から晩まで小さな工場で油まみれになって働いた。自分の生い立ちが貧しく、ズボンのバンドも買えずに荒縄を結んで学校へ行ったぐらいだから「貧乏」だけはもういやだと思い続け必死に働いた。父のそんな姿には、外見や「見てくれ」で父親を嫌いになるきれいごとの余裕はなかった。娘には、ただ私たちのために一生懸命なのだ、という真実だけが伝わった。
 娘にはとても甘く、嘘をついたとき意外はめったに怒らない父だった。話下手の父だが、聾唖者の叔父夫婦に初めての男の子が産まれたとき、身ぶり手振りで「女の子も、かわいいよ」と言っている姿がなぜだか忘れられない。
 父の夢は「大きな家」を建てることだった。そしてそれは絶対に「日本家屋」、純和風の家だった。最初に建てた小さな家が区画整理で移動されることになったとき、それはわずか10数メートルの移動だったが、家のところどころがひずんだ。そんな中で、床の間だけは寸分も狂わず、きっちりともとのままだった。父の夢はその「床の間」を作った大工さんに預けられた。ちょうど40歳の時である。
 高田さんというその大工さんは、宮大工さんで、東京の料亭や神社を作って腕を磨いていた。でも風変わりなところがあって、自分の納得のいく仕事をやり通すため、結局一人でこつこつを家を建てる人だった。だから一人では無理なことは父に手伝わせた。後に、家ができたとき(なんと、家が建つのに2年もかかった)、何人かの人が「お父さんが作られたんですか?」とまじめに聞くので笑ってしまったが、実際そう見えたのだろう。材木を吟味し、家具を吟味し、中学3年だった私には父のどこにそんな高尚な趣味があったのか、ただただ不思議だった。でも念願の家が建ったとき、これは笑い話?だが、私たちは「床に傷をつけるな」だの「壁をこするな」と注意ばかりされ、部屋は超重い「黒檀」や「紫檀」などの座卓や家具に囲まれ、おまけに掃除ばかりやらされて(あ〜、なんて住みにくい家なんだ!)と思ってしまった。
 高田さんは、この家を建てられた後、10年もしないうち病に伏せお亡くなりになった。お葬式の後しばらくして、息子さんが「父のやった仕事を見せてください」と我が家を訪ね、天井や柱、家の隅々を見つめられていたのを覚えている。

 父も5年前に大きな病気をし、「いっそのこと仕事を辞めたら」と勧められたが、幸運なことにその後も細々と大好きな仕事を続けている。よい機械があるわけではない。自分の工場は自分一代で終わらせる覚悟でいたから、新しい機械など買わなかった。本当に古い機械と自分の腕一本で、「1ミリの100分の一」の世界の中の仕事をやり続けてきた。そんな父が「うまく削れて、いい切子(削りカス)が出たときは、うれしいんだよなあ」と今でも目を輝かせて言う。本当に職人なんだな。父がこの仕事をあきらめる時がきたらどうなるんだろう。ちょっと心配になったりして。
 
 父の次の夢はなんだろう。70過ぎて、またどんな夢を叶えたいんだろう。ゆっくりとお祝いし、話を聞きながら皆で力を貸していきたい。