本当の「褒める」

 連休に近場の熱海へと旅行をしてきました。帰り際に「戸田幸四郎」絵本美術館に寄りました。自然の中にある小さな美術館で、中の作品を見るよりは外の緑に囲まれた庭で楽しそうに遊ぶオチビたちでした。美しい鶯のさえずりが山から時おり聞こえてきました。上手なさえずりでした・・・。
 4月の初め、おばあちゃんたちと近くの山へハイキングに行ったときも鶯が鳴いていたそうです。でも、チーいわく、「ホー、キョキョ、って鳴くの。下手だったヨ」とのこと。死んだおじいちゃんが(オチビたちにとっては曾じいちゃん)昔、鶯やメジロを飼っていたそうで、鳴き合わせ会にも行っていたというからかなり道楽をしたらしい。晩年には、竹篭まで自分で作っていたそうな。そのおじいちゃんがよく、若い鶯に、美しい「ホーホケキョ」の鳴き声をカセットテープで聴かせていたという話を思い出した。よい鳴き声を聴かせることで、よい鳴き方を覚えるらしい。学習するわけだ。
 で、そんな話をチーにしてあげると、ふうん、とうなずきながら「じゃあ、あの鶯は鳴き方が下手なママに教えてもらったんだ」とかなり現実的なことを言うので、おかしいのと、とっさにママをかばう本能?から「えっ、でもわかんないよ、ママがいくら教えても、子供が上手にできなかったのかもよ」と言い返し、自分のとっさの切り返しにちょっと満足していると、さらにチー、「わかんないよ、子供が下手に鳴いているのに、『ああ、上手、上手、おまえ良く出来たね』ってママが褒めたのかもよ、甘いママなんだから」と何食わぬ顔で言うではあ〜りませんか!ぐさっ!!これには正直たまげた、というか返す言葉がなかった。おまえ、なんていうことを言うんだい。
 自分は教員をやっている頃から、叱るよりは褒める方法で、子供たちに接してきた。事実、褒めた方がよく伸びた。もちろん、叱るときは、ものすごく叱ったし、褒めるときも共感しながら、なにがよかったのか、しっかり見て褒めるようにしていたつもり。
 でも、ここのところ、小さなオチビたちを相手に、その見極めがいい加減になっていたような気がしてきた。「何でも褒めて、調子にのせてやらせてしまえばこっちのもの」と思い始めていたのも確かだな・・・。描いた絵でも、弾いたピアノの1曲でも、「ああ、うまいうまい、よくできた、よくできた」と言って、気をよくしていたのは母だけで、当のわが子は「へえ、こんなのでいいんだ、ここが下手なのに・・・」とでも思っていたんだろうか。ああ、恐ろしい。見透かされていた?
 こんな小さな子でも本当のことはしっかり教えていかなければいけないんだな、表面だけでほめられることと「本当に褒められる」ことの違いを子供は本能で感じとれるのかもしれない。自分のがんばりに自分が満足し、それを他者に認められて一体になったとき、「褒められる」ことは快感になるんだろうな。
 「褒める」の安売りはしないようにしよう、「本当に褒める」のは小出しにしよう、と決心した母でありました。下手に鳴いた鶯さん、ありがとう。